宮崎駿最後の長編アニメ「風立ちぬ」感想と考察。インタビュー抜粋ネタバレ有

2013年9月6日の会見により、宮崎駿監督「真」最後の長編作品となった「風立ちぬ」

今回は「風立ちぬ」の感想と、考えたことを書いていきたいと思います。
ネタバレが有りますので、未鑑賞の方はご注意下さい。

以下、映画「風立ちぬ」のネタバレが有りますので、未鑑賞の方はご注意下さい。
また、非常に主観的な感想となっております。その辺もご了承を……

走馬灯の様な出会いと別れの物語

冒頭、夢から醒めて布団で目覚めるシーンを見た時、あぁ、この映画は二郎という人の「走馬灯」なのかな 、と感じました。

何故?と言われると説明できないのですが、とにかくこの人はもう二度と戻らない過去のことを慈しみ、懐かしんでいる。そんな物語。だから様々なものが「美しい」し、夢と現実の間が曖昧だし、都合の悪いところはバッサリカット。二郎が独り、空を見上げながら、飛行機との出会い、菜穂子との出会い、その両方との別れを思い出している、そんな印象の映画でした。

 

美しいということ。

劇中に頻繁にでてくる「美しい」。二郎にとって「美しい」は正義。そんな二郎の映画ですから基本的に美しいものだけで構成されています。

しかしその映画の中で、唯一「醜い」と感じたものがありました。それは爆弾虫(一番最初の夢で、巨大な飛行機ぶら下がってモゴモゴ動いていた黒いアレ)です。それらに二郎の小型飛行機はいとも簡単に落とされてしまいます。

私はあの爆弾虫が「戦争」そのものだったのではないかな、と思いました。きっとそんなに単純じゃないんでしょうけれど、私はあの爆弾虫がものすごく気持ち悪かったんです。本能的に「嫌だ!危険だ!」と感じたんです。だから私はあれがあの映画の中の「戦争」、二郎の空白の10年だと思いました。

双眼鏡か何かで、飛行機だけ見ている分には「美しい」かもしれないけれど、双眼鏡から目を離して全体を見た時、やっぱりそれは「美しくはない」。美しくないどころか、二郎の作った「美しい飛行機」は「美しくない世界」をつくる手助けをしてしまっていた。

ラストシーン、二郎は零戦について「一機も戻ってきませんでした」といっていますが、劇中、二郎の作った飛行機は、紙飛行機も含めそのほとんどが戻ってきていません(戻ってくる描写をされていません)。

どれだけ二郎が死力をつくして「美しい飛行機」を作っても、それを包括する「戦争」が醜く忌むべきものである以上、どうがんばっても二郎の飛行機は「美しい」ままではいられない。その現実を受け止めた上で、生きていかねばならない。それは「美しい飛行機」が作りたいという純粋な気持ちに従い、殺戮兵器を創りあげるという「罪」を犯した二郎への「罰」だったんだろうと思います。

二郎と一緒に生きる、ということ。

(この先はかなり好き勝手に菜穂子の気持ちを書いています。ご注意を)

二郎はイイ男です。でも、同時にダメな男でもあります。
言い方は乱暴ですが、ボンボンで薄情で飛行機バカ。
外見は大きくなっても、中身は布団の中の少年から変わっていません。
でも、そういうところをひっくるめて、やっぱりいい男です。

菜穂子はイイ女です。でも、同時にダメな女でもあります。
だって、感染する病気なのに人の家に転がりこんでしまうんですから。
飛行機が完成するその時に、居なくなってしまうのですから。
どれだけ教養があろうとも、世間知らずのプライドの高いお嬢様です。
でも、そういうところをひっくるめて、やっぱりいい女です。

私はこの二人を本当に愛おしく思います。

高原病院で独り、寒さに震えながら二郎のことを思う菜穂子。
そこへ届く二郎からの手紙。この手紙は本来、二郎が山に来る予定が書かれているはずでした(「THE ART OF THE WIND RISES」より)。けれどそれを読んだ菜穂子の顔は曇ります。山にはしばらく来れそうにもないという内容が書かれていたのでしょう。

菜穂子は毛布の中で二郎からの手紙を読んで気が付きます。
自分は二郎のことだけ考えているけれど、二郎はそうではない。ということ。
自分はもうすぐ死んでしまうけれど、二郎と飛行機はそうではない。ということ。
このまま待っているだけでは、もう会えないかもしれない。ということ。

二郎と一緒に生きたいから、高原病院へ行って、
二郎と一緒に生きたいから、高原病院を去った。

「元気になって結婚したい」
「一緒に(長く)生きたい」
「一緒に生きたい」
菜穂子の願いはどんどん小さくなっていきます。

これが他の男性だったらもっと別な展開になっていたことでしょうが、好きになった相手は薄情な「二郎」 。死を目前にして、なりふりかまっている余裕なんて彼女にはもう無いのです。

死にゆく菜穂子にとって「二郎と一緒に生きる」ということは、多くのものを犠牲にしても、がむしゃらにわがままに二郎のそばにいるということでした。

二郎の一番大切なもの

二郎にとって菜穂子は一番大切なものです。けれど、飛行機もまた一番大切なものであったと思います。そして菜穂子はそれを受け入れた。受け入れざるを得なかった。だって、二郎のことが大好きだったから。

劇中で、二郎は菜穂子に向かって「綺麗だ」とは言っても「美しい」とは言っていません。でも、鯖の骨には「美しい」というし、ストーブにも言う。悔しいですよ、女性として、妻として。
二郎は自分のことを心から愛してくれている、それは自分が一番理解している。

でも、自分の前で二郎がいつも考えているのは飛行機のこと、夢見る先は空の向こう。

飛行機は嫌いじゃないし、飛行機の事を考えている二郎の事も好き、でももう少し、自分だけを見ていて欲しい。二郎の時間をもう少し私に分けて欲しい。そんな気持ちが菜穂子にはあったと思います。だから仕事中なのに左手だけは、自分のものにしたりして。

話はそれますが、男の人が仕事をしながらタバコを吸う姿って、ものすごく魅力的ですよね。私喘息持ちだし、匂いも煙も駄目なのですけど、やっぱりカッコイイと思ってしまう。菜穂子は「我慢して」ではなく、「ここで吸って」と言っています。自分が病気でなければいつでも見られたはずの、二郎がタバコを吸いながら仕事をする姿、それを菜穂子は目に焼き付けたかったんじゃないかな、とかそんなことを考えてしまいました。勝手な想像ですね。まったく。

話を戻します。自分は日に日に死に近づいているのに、飛行機は日に日に完成に近づいている。両者の差はどんどん開くばかりです。やっぱり、辛いですよ。辛いし、悔しい。だから菜穂子はあのタイミングでさよならをしたと思うんです。ほんの僅かでいいから、自分のことだけを考えて欲しい。菜穂子の最期のわがままです。

その願いが届き、二郎は「初めての着陸」という非常に大切な瞬間に、飛行機を見ることなく菜穂子の事を思います。上の方にも書きましたが、劇中、二郎が作った飛行機は戻ってきません。無事戻ってきているのはこの飛行機だけだったと思います。でも、その「地上に戻ってくる瞬間」は描写されていません。愛する人を失った二郎にとって、その瞬間は無いも同然なのです。

計算高い女、そう言われてしまえばそれまでかも知れません。大切な人の大切な瞬間を奪ったのですから。 ひどい女です。でも私はこの菜穂子の自分勝手さをとてもとても愛おしく感じます。

 

ラストシーン・幻の結末

風立ちぬの最後のカット、二郎のみる最後の夢。菜穂子が黒川邸を去ってから10年後、1945年、終戦の年の夢です。

菜穂子が去り、新しい飛行機が完成してから10年、彼は夢を見なかったんですね。私はこの映画を二郎の回想だと思っているので、二郎にとってこの10年が「美しくない」10年だったんだろうな、とそう思いました。

さて、このシーン、絵コンテ段階と、実際に上映された映画では菜穂子とカプローニのセリフが変更になっ ています。

絵コンテ版
菜穂子「あなた、来て」
カプローニ「君のために祈っていたんだ」
菜穂子「きて……」

映画版
菜穂子「あなた、生きて」
菜穂子「生きて……」
(他にも変更箇所がありますが、自分にとって強烈に印象に残った部分を抜粋しました。)

えらい違いですよ。生きるか死ぬかの大違い。
たぶん、「きて」の方が作品としてまとまった様な気がするんです。だって私は「走馬灯だ」と感じたし、 寂しい想いをさせてしまった菜穂子に健気に祈られることで、煉獄にいる二郎は許されるわけですから。物語として「美しい」です。

でも、私は「生きて」の方が断然好きです。というか、もし前のままだったらこんなにこの作品を好きになってはいないと思います。だって、私は生きていますし、この先だって生きていかなきゃならないわけですし、そもそも「生きねば」っていうコピーに興味をひかれて見に来てるわけですから。

あれだけ、ポール・ヴァレリーの一節を押し出してるのに、好き勝手生きて美しいまま死ぬのかよ!ずるいだろそんなの!勝手に許されるなよ!これこそファンタジーじゃないか!と、思ってしまった事でしょう。そうです、私は心の狭い人間なのです。

「来て」よりも「生きて」の方がよっぽど厳しく残酷です。「生きる」って大変なことですし、さらに二郎は愛する飛行機も菜穂子も失ってしまっているのですから、きっと、映画には描かれていない10年以上に、「美しくない」事が待っていることでしょう。でも、もがいて足掻いて苦しんで、それでもなお、生きようと試みなければならない。その「生きねば」こそが「美しさ」だと私は思うのです。

セリフを変更する事によって初夜のシーンとは繋がらなくなってしまいましたし、やっぱり作品全体として違和感が残ります。けれど、映画のメインテーマであり、二人の出会いに登場した「風が立った、生きようと試みなければならない」という一節と繋がったのかな、と思います。

頭が良くて裕福で、雲の上の存在だった主人公が、打ちひしがれて地面に降りて、多くのものを失って、飛べない人になったのに、それでもなお生きることを要求される。大変な時代だけれど生きていくしか無いよね、という今の時代に合う映画になったのではないかなと思いました。

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追記:これについて宮崎駿監督が引退会見にて自らの言葉で語ってらっしゃいましたので、そちらを記しておきます。

「風立ちぬ」の最後については本当に煩悶した。なぜなら絵コンテを挙げないと、制作デスクの女の子が本当に、本当に恐ろしかったから。とにかく絵コンテを形にしないことにはどうにもならなかった。ペンディング事項があるけれど、とにかく形にしようというのが追い詰められた実態。

で、やっぱりこれは駄目だなと、(作画して声を当てるまでの間)冷静になって仕切りなおしをした。

(変更する前について)最後の草原は一体どこなのだろう、(と考えた時)煉獄(天国へ行く前に罪を浄化する場所)であると仮説を立てた。カプローニも堀越二郎も亡くなっていて、(煉獄で)再会している。そういう風に思った。

だから菜穂子はベアトリーチェ(天国の案内人)だ、だから「迷わないでこっちへ来なさい」という役ででてくるんだ、ということを言い始めたら自分でこんがらがりまして。で、それはやめた。

やめたことによってスッキリしたんだと思います。
神曲なんか一生懸命読むからいけないんですよね。
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おわりに

いやー、長々と語ってしまいました。私、映画についてこんなに考えたり、語ったりしたのは初めてです。もともと「すげー」とか「ちょーおもしろかった」とかしょーもない感想しか抱かないタイプなので、文章の端々に頭の悪さがにじみ出ていたことでしょう。考えたことだって、的外れだったに違いありません。いやー、文学作品に絡めた高度な分析とか、そういうのを期待して検索してきた方にはほんと申し訳ないです。めんごめんご。

私的ジブリ作品ランキングで20年近く1位の座を譲ることのなかった、名作「風の谷のナウシカ」。もうこの作品を抜くものは現れないだろうと勝手に思っていたのですが、「風立ちぬ」は颯爽とナウシカを抜き去り見事1位を奪っていってくれました。生きてるといいことあるんですね。良かった。

自分にピッタリとハマる作品にリアルタイムで出会うことが出来て、私はとても幸せです。この映画を世に生み出して下さった宮崎駿監督、スタジオジブリの方々、この映画に関わった全ての方に心より感謝申し上げたいと思います。

素晴らしい作品をありがとうございました。

最後までお読みいただきありがとうございました。
では、また。